言及:原神

一時期日夜を忘れて熱中していた原神。
このゲームは本当にキャラクターが魅力だ。
オタク受けのするキャラデザ一辺倒で勝負してきてるわけではなく、往年のアニメ・ゲームにみられるオタク文化的なキャラクターの記号部分をその王道から外れずに上手に調理している。
怒らせると怖~いお姉さんから献身的なメイドに根は普通な厨二病少女まで。
奇をてらわず、オタク文化に対して丁寧なキャラクターたち。
それでいて好感度を上げると見られるキャラストーリーは内面・設定を深く掘り下げていてキャラクターだけで一大コンテンツになる強さがある。

ゲームシステムも探検すればするほどにEXPが貯まり素材を手に入れられるので、オープンワールドゲームとして楽しむためのモチベーション作りも上手い。

しかし非常に勿体ないのが、一度ソシャゲとして遊ぶ方針に行き着いてしまうとオープンワールドゲームとして期待し遊んでいた者にとって急にただの「その辺のソシャゲ的ゲーム体験」になってしまうところだ。

もっと分かりやすく言ってしまおう。
ヘビーに課金して、理想の武器を作り、聖遺物を厳選して、ボスや素材ダンジョンの周回速度を早める。そういうサイクルになってしまった時点でオープンワールドゲームとしての楽しみが微塵も無くなる。
新しい地域の追加時とかはオープンワールドゲームサイクルに少し戻るかもしれないが、仕組みからしてソシャゲ寄りなのを一度理解してしまえばもうただのソシャゲに成り下がるのだ。

面白いから課金したい、キャラをたくさん手に入れたい、武器も集めて強くなりたい。自然にそう思わせてくれるのだが、「そっちの方」に行ったら何ら代わり映えのしない「あのゲーム体験」の繰り返しが待っている。

勿体ない。
本当に勿体ないタイトルである。

例えば「課金要素がオープンワールドの面白さに直結する」仕組みであったら、どれほど遊びごたえがあるだろうか。

単刀直入に言えば、課金するほど面白くなくなるゲームだと俺は思っている。

この面白さの定義も、原神の可愛くて魅力的なキャラのゲームシステム上の性能をビシバシ引き出してゲーム内コンテンツを超速で攻略していく。というのが面白いプレイヤーからすれば素晴らしいことなのだが、せっかくオープンワールドとソシャゲを融合させたゲームなのだからゲーム体験が完全にソシャゲに寄った時点で俺からしてみれば新鮮味も何もない、良くあるソシャゲの一つにしか思えないのだ。

今も遊び続けてはいるが、俺はキャラクターたちを愛でながら広い世界を走ったり飛んだりといった遊び方に終始している。

ガレリアの地下迷宮と魔女ノ旅団 表クリアしました。が…

伏線が散りばめられ練られたシナリオ。
Club Covenを始めとする素晴らしい音楽。
前作から改良されたシステム。

100点満点に限りなく近いゲームだったんだけど裏ダンジョンのグラン・カテドラルが全てをぶち壊し。クリア後の腕試し的な位置付けのダンジョンならばいいのだけれど、シナリオに直接関わっているので実質的にメインストーリーの延長上にありこのゲームを完結させる為にはクリアが必須なダンジョンになっている。

とにかくこのグラン・カテドラルのせいで人に勧められない。
グラン・カテドラル内では中断セーブが読み込めなくなる事例があちこちから聞こえてくるため、普通のサラリーマンなんかは平日にプレイする事すら時間的に不可ですよ。これこそ不可です。休日にまとまった時間取ったとしても銀ノ匙集めに苦戦し、運が悪ければダンジョンギミックで即死コンボ食らって数時間がパアという事もあり得る。

ガレリアの地下迷宮と魔女ノ旅団マジで売れて欲しいし日本一ソフトウェアがんがん稼いでこれからも色々な面白いゲーム出して欲しいんだけど、グラン・カテドラルの仕様を見たらそういう気持ちは本当に薄れてくるよ。


分からない事もないんだ。
ナチルが身を挺してユリィカを送り出したあの世界。

あの世界をいちからやり直すためには、プレイヤーである降霊灯もこれくらいの試練を乗り越えなくてはならないという事は。

本当に幸福な「可能性の先の世界」
それを見る為には相応の覚悟が必要なんだ。
そういった"体験"をプレイヤーに重ねてくるゲームということです。
俺の中でも賛否あり。
昨今、どのゲームもプレイヤーに楽をさせるために進化しているものばかりなので、こういったゲームはもう出なくなっているから貴重ではある。

言及:ファイナルファンタジーXIV

まさか社会人になってから再度MMORPGにハマるとは思っていなかった。
FF14は本当に凄いゲームだ。

何しろやる事が無限にある
アバターを作り込めるミラプリ
盛りだくさんの各種イベント
充実の生産系システム
シナリオくそ面白い
キャラめっちゃ魅力的
挙げればキリがない

バトルがつまらねーーーーーーーー!!
FF14の戦闘が!面白く!ない!


語弊があるんで正確に言うと「MMORPGの戦闘として面白くない」んです。
一般的なゲームとかJRPGとして見たらこの戦闘、素直に面白いです。

私がMMORPGに求めてるのはMMORPGらしい戦闘でそれ以外ではないんです。
だって面白い戦闘がやりたければ戦闘面白いRPGなんて幾らでもあるからそっちやるし。
せっかくMMOやってんだからMMOを楽しめる戦闘がやりたかった。

そんなわけで戦闘面に関してはFF14はNot For Meなんですよね。
やる事無い?極も零式もあるだろ!って言われても
私自身が戦闘面白いと思ってないしやりたくない=やる事無いんだよね…


どこがどうMMORPGらしくないの???ってのについて答えると

決められた人数で、決められた装備を使い、
決められたスキルを、決められた手順で回し、
決められたギミックを避ける。
そういう戦闘だからです。

予想外のプレイヤーの乱入や、見ず知らずの人からの回復支援。
急に雑魚が湧き出してボスどころではない…
といったMMORPGならではの戦闘に関するドラマが一つも無いんですよね。

ジョブ毎のスキルやステ振りで個性も出せないし…。
突き詰めればどのネトゲでも同一のビルドにたどり着くだろ。
って反論もあるかもしれないけどそれは突き詰めた人達の話だし少なくともMMOを15年くらい色々なタイトルやってきたけど、誰もが同じビルドで無個性なゲームなんてありませんでしたよ。


そして戦闘面もなんだけど、MMOとしてもどうかね?って思うとこが一つ。

それがよほど能動的にコミュニケーション取らなければ
一言二言の会話さえしなくても良いシステム。

ぼっちでもネトゲが出来るという長所と見る事も出来るんだけど、
私はMMORPGの良いところって、リアルではぼっちだけどバーチャルでは友達が作れる、饒舌になれる、ってトコだと思うんだ。

最初っからバーチャルの世界ですらチャット打つ事も億劫、みたいな人向けに作られてしまうと、バーチャルの世界でなら交流出来る!っていう成長を促す機会も無いと思うんだよね。

知らない人に話しかけてパーティーを組む、くらいのハードルはMMORPG遊ぶなら越えてほしい。けど今の世の中だとこういうのすらマッチョイズムの一種だと思われてしまうんだろうか?


実際こういった部分が成功したお陰で国内有数のMMORPGとして成長したのは間違いない。
コミュニケーションの難しさを撤廃し
適切なビルドと装備で挑む難しさを撤廃し
バトルにおける不確定性を撤廃し
従来のMMOの要素を、撤廃と簡略に次ぐ簡略の果てにここまで支持されるタイトルとなったならば、私達が楽しんでいたそれは無駄な事だったんだろうか?
本質的には要らないものだったんだろうか?
望まれていなかったものなんだろうか?
そんな事を考えると少し寂しさを覚えたりもするのだった。


勿論、撤廃や簡略だけではなくFF14が生んだ様々な素晴らしい仕組みは存在していて、
それが多くの人々を楽しませ、時に生き甲斐を与え、人生を素晴らしくする事に貢献しているのは間違いない。
だからこそ、FF14の今日の栄光がある。


了。

(私が4gamerにシズ名義で投稿した読者レビューから内容を一部引っ張ってきています)

言及:真・女神転生III

真・女神転生III

RPGとしては紛うことなき傑作。
女神転生としては…どうだろう?

真・女神転生IIIメガテン最高傑作!という評価を見る度にモヤモヤするポイントだ。
RPGとしての面白さを含めるなら、メガテン最高傑作という言葉は間違っていないと思う。
しかしあまりにも女神転生としてテイストが異質すぎると私は思っている。

本作から女神転生に触れたプレイヤーにはピンと来ないと思うが、
崩壊した東京で悪魔や組織の様々な理念・欲望・陰謀に晒されながらも逞しく、
時には惨めに生き抜くニンゲン達が描かれていたのが私にとって女神転生シリーズの大きな魅力だった。
そもそも東京受胎により普通のニンゲンがほぼ居なくなってしまっているため、
私にとっては女神転生としてかなり異質なタイトルに見えるのだ。

もちろん自分にとって最高のメガテンは真IIIだという熱い想いを持つ人はいるだろう。それはとても良い情熱だ。
だがシリーズにあまり触れてきていない人が脳死で唱える「真IIIこそが最高のメガテン」という言葉には私は大いに異を唱えたい。

メガテンが持つ「美徳より背徳」「高揚より安堵」「絡み合う悪魔と人々の思惑」「凋落からの復活を目論む神々」…こういった
他のRPGには見られない独特の要素を色濃く引き継いでいるのはむしろ真IV、真IVFの方ではないか。


真IIIを貶める意図はない。
完成されたシステム、編成の自由度と非常に高い戦略性、生き方と世界について考えさせられるコトワリ…真IIIが魅力的すぎるRPGである事は疑いようが無い事実だ。
しかしながらメガテンシリーズが持つ独自のテイストは薄目ではないか。
そんなところだけが玉に瑕ではないかなと私は思うのだ。

無論、それを欠点とは思わずむしろこっちの方がメガテンらしい!
そう考える人もいる事は承知しているのだけれど。

私の語った「メガテンらしさ」について同じ想いを抱いている人。
そんな人と一度思う存分女神転生を語ってみたいものだ。


了。


(私が4gamerにシズ名義で投稿した読者レビューから内容を一部引っ張ってきています)

言及:ペルソナ5

ペルソナ5はとても面白いゲームだった。

アーケードと携帯機が中心になっていて、据え置きから離れがちだった自分のゲームライフを一気に据え置き寄りに戻してくれた作品でもある。

痛快世直し劇である極上のジュブナイルとして、そしてペルソナシリーズ最新作として、単純に完成度が高い。
ミステリ、サスペンスといった要素をふんだんに盛り込んだストーリーも素晴らしい。

けれど、このストーリーで気になったところに言及したい。

精神の改ざんって、殺人と同義ではないだろうか?
主人公であるジョーカー達はゲスでド外道な悪い大人達の精神に侵入し、
その心に影響を与える事で更生…悔い改めさせる。

いわば人格を変えてしまう洗脳に等しい。
ゲスで悪人、そういった部分もその人物を構成する一要素だ。
それを本人の合意無しに無理やり変えてしまうのを人格の破壊=実質的な殺人ではないと言い切れるだろうか?

もちろん悪人よりは善人が多い世の中がいい。
この世から悪徳が根ざす心の総量が減る事こそ、幸福な世界に近づく第一歩である事は間違い無い。

しかしそれは道徳規範にかざして善し悪しを決める事だ。
世の中にとって良かれ悪かれという事を論じる事と、
人の精神を不当に弄り別人に作り変えてしまう事は別々に論じられて然るべきだ。
同列に語ってしまうと、世のため人のためなら人を殺しても良いのかという観点の話になってしまう。

つまり。
私が気になったところとはジョーカー達のやっている事は業が深いという事。
人が人である理由が精神の在り方と定義するならば、人格や考え方を強制的に変える事は殺人行為と同義ではないか、という私見だ。

私はペルソナ5を多くのプレイヤーに理不尽な社会に反発する痛快世直し劇として楽しく消費して貰いたい。
私自身も金や権力を握る理不尽でどうしようもない性格の大人達を誰かがバッサリと成敗してくれたらな、と思ったりもする。

しかしそう思う事と、ジョーカー達のやっている事に疑問を抱く事は別の事だ。
何もペルソナ5のストーリーに問題があると言いたいわけではない。
ジョーカー達のやっている事に反論を唱えたいわけでもない。

ただ、彼らの世直しはある側面から捉えたらとても恐ろしい事ではないのか?
そんな風に思いを馳せたりする、というだけなのだ。


了。